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増田俊也「小田常胤と高専柔道そして七帝柔道」


元祖寝技の鬼とも称される小田常胤。 寝技といえば高専柔道を想起される方は少なくないと思うが、
そう、まさに小田常胤こそが
高専柔道~七帝柔道、さらにはブラジリアン柔術、総合格闘技へと
続く流れの祖でもある。
まずは歴史を紐解かねばなるまい。
小田常胤と高専柔道、七帝柔道の関わりと成り立ちを、
本誌人気連載「七帝柔道記」の筆者、
増田俊也氏にわかりやすく解説いただいた。
(インタビュー・『月刊秘伝』編集部)
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――今回、小田常胤先生の映像が出てきたことについては、増田さん的にはどう思われますか。


増田 貴重な映像ですね。かなり驚きました。でも、納得した部分もあります。こういう映像はフランスを中心にヨーロッパから出てくることが多いんですよ。あの史上最強を謳われる木村政彦先生に勝った武徳会の阿部謙四郎の映像もヨーロッパから出てきてます。だからフランスから小田先生の映像が出てきたと聞いて、やっぱりなと思いました。


――日本からは出てこないと。


増田 木村先生の昭和十五年の天覧試合の映像も剣道の物が残っているので柔道もあるはずなんですが、私はもう十年以上あちこちを探しても出てこないんです。


――小田先生はどんな方だったんでしょうか。


増田 山梨の生まれなんですけれど、小さい頃から成績がよくて静岡の旧制沼津中学に進んでいます。ここに叔母がいて、そこから通ったみたいですね。当時、旧制中学に進む人間は非常に少なくて、しかもこの沼津中学は名門だったんです。今の沼津東高校です。寝技師っていうのは理論派で頭のいい人が多いですね。旧制沼津中学を出てから皇典講習所に進んでいます。今の國學院大学です。

六高(現在の岡山大学)が開発した前三角絞めは高専柔道最大の必殺技で、現在のブラジリアン柔術や総合格闘技にも受け継がれている。写真は高専柔道の聖地・京都武徳殿で六高選手が前三角をかける場面。


――この小田先生の映像は、いつ頃のものだと思われますか。


増田 昭和十二年以降のものであるのはたしかです。横三角絞めがでてきますから。横三角が開発されたのは昭和十二年、木村政彦先生が拓大予科三年のときです。前年、拓大予科が高専大会で優勝して、連覇のための秘密兵器として開発したのが横三角なんです。それを小田先生が披露しているということは、間違いなく昭和十二年以降の映像です。


――寝技の常胤流といわれていたんですよね。


増田 寝技では「東の小田常胤、西の金光弥一兵衛」といわれてました。金光先生は高専柔道の名門六高(現在の岡山大学)の師範をつとめて、前三角絞めなんかの開発に携わった方です。この前三角ができてから、後ろ三角や裏三角、横三角ができてくるんですね。


――小田先生は二高の師範をされていたんですよね。


増田 そうです。二高というのは今の東北大学の教養部の前身ですね。戦後、東北帝国大学に吸収されて、新制の東北大学の教養部になったんです。


――この映像を観て、小田先生の技術をどう思われますか。


増田 技術論に関しては私のような人間が語るのはおこがましいことなので、歴史的な側面からお話させていただきますが、少なくとも、明治時代の草創期の講道館は、小田先生や三船久蔵先生ら一部の人を除いて、あまり寝技をやらなかったんです。後に講道館の寝技が飛躍的に発達したのは高専柔道の技術を吸収するようになってからなんです。


――そうなんですか。


増田 だから、それ以前は古流柔術との戦いで寝技戦になって何度も苦汁を飲まされています。こういうことは講道館の正史から抹殺されてしまっているので一般の人たちはあまり知ることがありませんが、古流柔術に詳しい研究家たちは、私なんかよりずっと詳しくご存じだと思います。日本で最も古流柔術と講道館草創期の歴史に詳しいのは専門の研究者ではなくて、在野の研究者であるパラエストラの若林太郎さん(日本修斗協会事務局長)です。若林さんに聞けば、このあたりの面白い話がたくさん聞けると思います。


――高専柔道は前三角絞めを生みだしたことで有名ですが。


増田 そうですね。前三角をはじめとした各種三角絞め、それから抑え込みに関してもホッテンとかイタチ抑えとかベンガラとか、新技をどんどん開発してます。学生たちが自分たちで研究して開発していったんですよ。今、そんなことありますか?


――ありませんね。


増田 小田先生の映像には足緘も出てきます。高専柔道では膝十字なんかの足関節をやってますが、これら足関節も高校生たちは古流柔術から発掘してアレンジしたんだと思います。とにかく研究心が半端じゃなかった。だから毎年毎年新しい技が出てきた。そしてそれを防ぐ技術が発達し、さらにそれを破る攻撃技術も伸びていく。今の柔道界で毎年新技が開発されるなんてことはないでしょう。それが高専柔道では進化し続けたんですから。高専大会は戦争で消滅してわずか二十七回しか続いていません。その二十七年間で凄いスピードで進化したんですね。


――高専柔道のレベルの高さは新技開発のスピードで証明できるということですね。


増田 私は今のブラジリアン柔術の進化のスピードを見ていて当時の高専柔道に重なって見えるんです。きっとこんな感じだったんだろうなと思います。でも、当時はビデオもDVDももちろんありませんし、写真すら貴重なものだったわけですよね。いったいどうやって高専柔道があれだけのスピードで進化したのか……。


――講道館柔道と高専柔道の関係はどんな感じなんでしょう。


増田 講道館の寝技とか高専柔道の寝技とかいいますけれども、講道館柔道と高専柔道というのは、はじめのうちこそルール的なものもあって別れていましたが、高専柔道が戦争によって消滅して七十年も経った今になってみれば、別に対立概念でも何でもないんですね。新技を次々と開発し続ける高専柔道の寝技技術を講道館が大正・昭和に入ってから吸収して今のような柔道が完成していくわけですから。旧制四高(現在の金沢大学)出身の作家・井上靖さんが「現在の柔道の寝技を作ったのは講道館や武専の専門家ではなく私たち高校生たちだった」とどこかで書いておられましたが、つまり、現在の講道館柔道の寝技は高専柔道の寝技なんです。だから高専大会自体はなくなってしまったけれど高専柔道の技術がなくなったわけではなく、今の講道館柔道に繋がっているわけです。もちろん引き込み禁止と寝技膠着の「待て」によって消失してしまった技術はたくさんあると思います。それは本当に惜しいことだと私は思います。ですが、たとえば、これはかなりのマニアでも知らないことだと思いますが、いま最もポピュラーな抑え込みの一つである崩上四方固も、もともと四高が開発した新技だったんです。横三角も先ほど言いましたように拓大予科の新技ですよね。


――なるほど……。


増田 現代の柔道から崩上と横三角がなくなったら寝技の技術体系を根本的に作り直さなければならないほど大混乱しますよね。つまり現在の「柔道」という一つの競技、講道館ルールも国際ルールも含めてですが、その中に高専柔道はDNAレベルで取り込まれているんです。ですから小田先生の映像の中には今の人から見ると「普通の技術ではないか」という技もあるでしょうが、もともと高専柔道が開発した新技を講道館柔道が吸収して現在の「柔道」があるわけですから。そのあたりの順序を把握しておかなければならないと思います。


――まず初めに高専柔道ありきだと。


増田 これは今回、小田先生の映像を観てあらためて思いました。こんなことを、こんな大昔にやっていたのかと驚きました。高専柔道と現在のトップクラスの選手と、どちらの寝技技術が上かという議論がよくされますけども、それは的外れの議論です。前述のように、現在の柔道家が使っている技術体系は高専柔道の開発した技があってこそ成り立っているものだからです。微積分は今は普通の高校生だって使いますが、だからといって微積分を創ったニュートンやライプニッツと現代のトップ数学者たちと、どちらの数学の力が上かという議論は起こりません。柔道の技術に関しても同じで、やはりはじめに創った偉大な先人たちがいてこそ現在の寝技の細かい技術のアレンジができる。現在の数学者のトップたちはとてつもなく高い頂で頭脳を競い合っていますが、何も知らないところから微積分の概念も含め数学をすべて創り上げろといったらそれは無理です。だから、もし柔道の寝技がこれから大きく発展したとしても、高専柔道の画期的な新技開発の歴史が消えるわけではありませんし、小田常胤や金光弥一兵衛の名前は、ニュートンやライプニッツのように、柔道史に永遠に残るものだと思います。


――小田先生と高専柔道のかかわりについて教えていただけますか。


増田 高専大会というのは京都帝大(現在の京都大学)が京都の武徳殿で大正三年に始めたものです。年々、参加校が増えて、東京帝大や九州帝大も含めて帝大柔道連盟を結成し、全国的になっていったものです。最終的には日本本土にあった七つの帝国大学の共催になって昭和十六年まで二十七回にわたって続けられた大会です。

一高(現在の東大教養学部の前身)から二高(現在の東北大学教養部の前身)への挑戦状。この試合から高専柔道が始まった。



――なるほど。


増田 普通、高専柔道というと、この大正三年に始まった全国大会のことをさすんですけれども、もともとは明治時代からあった一高vs二高、五高vs七高、三高・四高・五高・六高との定期戦なんかをまとめたのが高専大会なんです。このなかでも一番古いのが明治三十一年から始まった一高vs二高の定期戦です。この対抗戦は大正三年、武徳殿での高専大会が始まった後も、別個に続きました。


――で、その二高の師範が小田常胤だったと。


増田 小田先生が初期の高専柔道に寝技を持ち込んだ張本人です。いわば高専大会が寝技中心になっていく源流を作った方ですね。二高は一高に勝つために、大正六年、講道館ですでに・常胤流・として寝技で有名だった小田先生を招聘しました。小田先生は二高の練習から立技を排除して寝技を徹底的に鍛えることになります。


――小田先生は講道館の柔道家なんですか。


増田 純粋な講道館柔道ですね。でも、本人は古流柔術はやっていないといってますけども、私は古流の寝技も隠れて研究していたと思いますよ。研究しなくては短期間で高レベルの寝技は身に付かなかったと思います。小田先生が古流を研究していただろうということは工藤雷介(故人、柔道新聞主幹)さんも仰ってます。
 

二高が一高に出した応戦状の下書き。


――小田先生の招聘で二高の寝技が強くなったんですね。


増田 一高と二高の定期戦はかなりヒートアップしてました。小田先生が赴任した頃の二高は体格や段位で一高に劣ってましたが、寝技で跳ね返して勝ってやると。小田先生は勝てなかったら給料は返すとまで言ったそうです。それで、一高の作戦をみるために東京にスパイまで送り込んでるんですよ。


――スパイ?


増田 ですが当時の旧制高校は試合前になるとみんな新技の研究をしてましたから、練習を覗かれないように道場の外に下級生を立たせていたんです。しかも一高は全部の窓にカーテンをして絶対に見えないようにしていました。困った小田先生は知り合いの娘を一高が道衣を洗濯に出している洗濯屋に送り込んで、道衣の擦り切れ具合を報告させたそうです。


――なんでまたそんなことを?


増田 その道衣の擦り切れ具合で、道衣のどの部分がより擦り切れているか、娘に報告させたんです。で、一高がどんな練習をしているかをはかろうとしたんです。


――すごい執念ですね……。


増田 それくらい当時の旧制高校は勝ちにこだわったんですね。小田先生の寝技特訓が奏功して、二高はその年の一高戦に失点ゼロで勝ちます。寝技は立技と違って失点を最低限に抑えられるのが特長です。だから団体戦向きなんです。高専柔道が寝技中心になっていったのはそれが理由です。


――そうなんですか。


増田 よく高専柔道では白帯を短期間で鍛えるために寝技を徹底させたんだと言われますが、寝技だって強くなるのは時間がかかります。「寝技三カ月立技三年」みたいな言葉もありますが、立技優先主義者が寝技を馬鹿にしてつくった言葉です。高専柔道は研究量と練習量が多かったから新入生の実力が速いスピードで伸びただけです。高専柔道が寝技を優先したのは、失点を抑えるためです。


――寝技は短期間に強くなれるというのは嘘なんですね。
 

小田常胤を招き、寝技ばかりの練習を繰り返す二高柔道部。小田常胤は団体戦では寝技が重要だと早くから気づいていた。


増田 どんな技術だって身に着けるには時間がかかりますよ。高専大会もはじめのうちは立技もたくさん見られる大会だったんです。でも寝技の方が団体戦では確実に引き分けを計算できて間違った失点を抑えることができる、各高校ともそれに気付いて寝技を研究しだしたんです。その始まりが小田常胤だったんです。


――そういうことだったんですか。


増田 立っていたら、どんなに強い人間でも何かの拍子で投げられる可能性がある。でも寝技は強い人間が弱い人間に負けるということは、まずありえないんです。七帝戦というのは、戦後、かつて高専大会を主催していた旧帝大である七大学がルールを踏襲して昭和二十七年に始まったものですが、七帝戦が始まったのは高専大会が消滅して十年も経ってからですから、はじめは寝技を受け継がず、普通に立技の攻防が見られたそうですよ。


――それが途中から寝技中心に移行していったと。


増田 高専柔道も七帝柔道も、十五人で抜き勝負をしているうちに、自然に同じ答になっていったんです。気付くんですね、勝つには寝技を徹底した方がいいと。立技は変なところで投げられて失点し、団体戦では危険だと。それに最初に気付いたのが小田常胤であり、二高であったんです。


――なるほど……。

 

一高戦を前に、講堂で応援団員から激励される二高柔道部員。彼ら高専柔道の部員は、学校の名誉を背負って戦った。

増田 高専柔道というと三角絞めを開発した六高の金光師範を思い浮かべる人が多いと思いますが、はじめに寝技中心にしていったのは小田常胤なんです。はじまりは小田常胤、そしてその寝技のレベルを高めていったのが金光弥一兵衛というのが、正しい歴史認識だと思います。二人がいたからこそ高専柔道の寝技が極限まで発展したと。高専柔道といえば小田常胤を忘れてはいけません。


――高専柔道と七帝柔道を比べるとレベル的にはどうなんですか。


増田 高専柔道と七帝柔道を比べたら高専柔道に失礼ですよ。当時の高専柔道は間違いなく世界の最先端にあったでしょうから。講道館や武徳会がまだ知らない新技術を使ったわけですからね。その高専柔道が開発した新技が講道館の寝技好きの人たちに伝わってということを繰り返していたんだと思います。木村政彦先生の師匠牛島辰熊先生もそうですよね。当時日本一の柔道家だったにもかかわらず六高に出稽古に行っては技術を吸収してました。高専柔道は新技を開発し続けたからこそ講道館や武徳会の常に一歩先を行けたんですよ。木村政彦先生だけじゃなく高専柔道出身者には当時の全日本選士権に出場している選手が何人かいますが、七帝柔道は、残念ですけども、そこまでの力はありません。もちろん例外的に強い選手はときどき出ますけども。


――高専柔道と七帝のレベルの差はどこからくるんですか?


増田 競技者人口が圧倒的に違います。七帝柔道っていうのは七大学でしか行われてませんが当時の高専柔道は全国のあらゆる学校で行われていました。旧制高校、旧制専門学校だけではなく、旧制中学まで高専ルールで戦っていたんですから。旧制中学の大会は講道館ルールと高専ルールのものの二つあって両方の大会に出たんです。旧制高校がスカウトするために近隣の旧制中学を集めて大会を開いたり、高専大会を主催する帝大柔道連盟も中学の試合を開催していました。だから競技者人口が非常に多かった。高専大会は本当の意味で団体戦日本一を決める当時唯一の大会だったわけです。規模やレベルでいえば今の優勝大会(講道館ルールで学生団体日本一を決める七人制の団体戦)にあたります。途中から私学が参加しだして、技術だけでなくフィジカルの面でもレベルが上がりました。立っても寝ても史上最強の木村政彦先生は、そういう土壌で寝技を磨かれて誕生してくるわけです。


――高専柔道は決してマイナーなものではなかったと。


増田 まったく違います。競技ルールとしては講道館ルールよりずっと普及していて、公式試合に出場する競技者人口で講道館ルールを圧倒していたんです。たとえば高専大会はたしか七十四校が参加していますが、講道館ルールで行われた東京学生柔道聯合会主催の大会にはせいぜい三、四校しか参加校がなかったんです。


――高専ルールと七帝ルールというのは同じなんですか。

 

当時の二高の校舎。バンカラな二高の学生は仙台市民から愛されていた。

増田 基本的には同じです。まず寝技への引き込みが認められていることで、立技をかけずにいきなり寝技にいってもいい。組んだ瞬間に寝転がることができる。だからこそ小田常胤先生はそのルールを最大限に利用して二高生たちの寝技を徹底させたんです。それから寝技膠着による「待て」がないので寝技が始まると終了まで延々と両者は寝技をやり続ける。


――寝技地獄ですね……。


増田 講道館ルールや国際ルールのように五秒か十秒のあいだカメをやっていれば審判が「待て」をかけて助けてくれるようなことがありません。だから防御技術がしっかりしていないと取られてしまいます。それから基本的に場外がない。場外に出ても「待て」をかけずに「そのまま」と言われて試合上のまん中まで同じ体勢のまま主審と副審に引きずられてしまいます。これは現在の総合格闘技の「ドント・ムーブ」にあたります。とにかく「待て」がかからないですから主審は助けてくれない、延々と寝技が続く。それが高専柔道・七帝柔道の特長です。


――高専ルールと七帝ルールの違いは何ですか。


増田 試合時間だけが違うんです。高専大会は先鋒から十三人が試合時間十分、副将が二十分、大将が三十分だったんですが、七帝ルールは先鋒から十三人が六分、副将と大将が八分なんです。


――かなり短くなりましたね。


増田 学生時代に高専柔道時代の先輩たち、北大でいえば北大予科OBの方々が道場に来て教えてくれることがあったんですよ。私たちは七帝戦でカメ取りに苦労しているから、カメ取りに関する質問が集中するんですが、北大予科の先輩たちは非常にシンプルな技しか教えてくれないんですね。


――それはどういうものですか?


増田 相手のバックについて両腰を極めて送り襟絞めを狙うとか、とにかくごくごくシンプルな技をやるんです。私たちとしては「そんな技では七帝戦の堅いカメは取れませんよ」と思いながら聞いてるんですけども。で、たまたま同期の東北大学の学生と話してたら、やはり東北大学に教えに来る高専柔道のOBもシンプルなカメ取りしか教えてくれないと。だからどうしてそんなシンプルな技でカメを取れるのか話し合ったことがあるんです。二人で出した結論は、もしかしたら試合時間の長さにあるんではないかと。


――試合時間の差がそんなに技術体系に影響を及ぼすんですか。


増田 六分はカメだけで守りきれますけども、三十分間も相手校の強力な抜き役の攻撃をカメだけでしのぐことは技術的にもスタミナ的にも難しいから高専柔道では分け役がカメだけで守ることができなかったんじゃないでしょうか。だから下から脚を利かせて守る技術を磨かざるをえなかったような気がします。三十分はかなり長いですよ。名大の師範だった小坂光之介先生が生前仰っていたそうですが、四高柔道教師時代に大将戦を戦う可能性のある選手たちと三十分の乱取りの相手をするのは本当にきつかったと。小田常胤先生の映像を観てもカメ取りがあまり出てこないですよね。


――たしかにあまりカメ取りはありません。


増田 実は七帝戦のカメは初めから多かったわけではなくて、異常に増えたのは昭和四十年頃に、ある大学が始めてからだと聞いてます。それが引き分け戦術として非常に有効だとわかり他大学も真似をしだしたと。やはり試合時間も含めて一つの限定ルールの中で競技が歴史を経ると、そのルールの中で有利な方向へ微妙に進化の方向性が変わってくるんじゃないでしょうか。だから試合時間の差が、高専柔道と七帝柔道が進化の方向性を違えた理由のような気がします。昭和四十年頃まではカメは多くはなかったんですから。


――高専柔道と七帝柔道ではまったく別物になってしまったと?


増田 たしかにカメが増えてはしまいましたけども、寝技ばかりの柔道であることは同じです。それが前三角中心の攻防か横三角中心の攻防かが違うだけだと思います。七帝柔道でも前三角を得意技としている選手はいますけれども少数派です。前三角からの攻防はむしろ七帝戦よりもブラジリアン柔術に色濃く残っています。


――なぜブラジルに?


増田 過去のことですから証明のしようがないですが、高専柔道の前三角が入植者を通じてブラジルに渡ったんじゃないでしょうか。それがさらにブラジルの地で工夫が加えられ極限まで進化していったのがブラジリアン柔術の前三角だと思います。だから七帝戦を語る場合、技術うんぬんよりも、その高専柔道を引き継ぐ団体戦の精神的なものを言うべきだと思います。非常に単純化していうと、高専柔道の前三角を吸収して別ルールで進化したのがブラジリアン柔術で、精神性を受け継いだのが七帝柔道だと私は思います。もちろん七帝柔道も高専柔道の技術を受け継いではいますけども、前三角の攻防技術に関してはブラジリアン柔術が圧倒的に上です。


――その七帝柔道が受け継ぐ精神性というのは具体的には。


増田 フォア・ザ・チーム、チームのために抜き役と分け役がそれぞれ分業して役割をきっちり果たすということ。抜き役が分け役より偉いわけではない、同列に語るべきものだということを七帝柔道を経験した人間はみんなわかっています。こういう考えの始まりが小田常胤だったんです。


――では、レベルが高専柔道より落ちてしまった今の七帝柔道の、講道館柔道に対するアドバンテージというのは?


増田 それはやはり、身体能力の劣る旧帝大の選手でも、立技を捨てて練習時間をすべて寝技にあてて鍛えれば、格上の大学との団体戦で作戦次第では渡り合えるようになるということでしょう。たとえば、中井祐樹君が北大の現役選手だった頃、七帝ルールで拓大と団体戦をやって、体格が圧倒的に劣っていたんですが北大が勝ってるんですね。これは当時の北大は分け役にいい選手がたくさん揃っていたからだと思います。その分け役たちが拓大選手たちを相手に必死に分けて、中井君ら強力な抜き役陣が取ったのが勝利につながったんでしょう。


――拓大に勝ったんですか。


増田 分け役さえしっかりしていれば、引き込みありで寝技膠着待てなしの七帝ルールなら、格上の学校とやってもいい勝負ができます。でも、たとえば優勝大会(前述)ベスト8あるいはベスト16クラスの大学と旧七帝大の選抜チームが十五人の七帝ルールで試合をするとします。七大学の主将と副主将を集めて十四人です、それプラス強い選手を一人入れて十五人のチームを組んだらいいだろうと思われるかもしれません。しかし、それでは確実に負けます。


――なぜですか?


増田 例外はいますけども、主将や副主将をやっている選手のほとんどは攻める力は強いですけども、分ける力が弱い者が多いんです。立技もある程度できて、もつれたところを上から攻めたり、相手がカメになったりするのを取る力は強いんですが、相手が自分より強いときには逆に取られるんです。立っていったら確実に投げられるし、足が利かないから自分からは引き込めない。普段の練習でカメにならないから、自分がカメにされた時に脆い。


――じゃあ、どういうふうにチームを組めば?


増田 まず七大学の四番手、五番手あたりの脚が利いてカメも堅い分け役を十二人選びます。そして引き込んで下からも攻める力を持った本格的な寝技を身に着けた抜き役を三人だけ選ぶんです。そうすれば勝つ可能性も出てきます。分け役を相手のエースにぶつけ、徹底的に引き分ける。そして中井君のように下からも強い、上からも強い、相手がどんなに強くても絶対取られないし、相手が隙を見せればそれに乗じて攻めて取る、そういう本当に強い寝技師の抜き役を三人だけ入れて戦う、七大学選抜チームの監督はそういう作戦を組むでしょう。もし勝つならそのパターンしかありませんから。


――なるほど。


増田 今の旧帝大の選手はたしかに国士舘なんかのトップレベルの重量級には身体能力で圧倒されてしまいます。「七帝柔道がどうの寝技がどうのと言うが、じゃあ君たちは五輪代表に勝てるのか」と言われれば「勝てません」としか言いようがありません。でも、天分に恵まれた選手が五輪を目指すだけが柔道だったら寂しくないですか。柔道ってそんなに小さなものじゃないと思うんです。身体能力が高い者が弱い者に勝つ、それだけでは七帝柔道の存在価値はありません。いや、柔道自体の存在価値もなくなるし、他のジャンルも含めて世の中のほとんどの人間に存在価値がないことになってしまいます。人生のこういった根源的な部分を私が考えるようになったこと自体、七帝柔道を経験したからです。七帝のOBはみんな同じようなことを考えるようになりますよ。七帝柔道というのは競技というよりも哲学なんですね。何度も言うように七帝柔道が受け継いでいるのは高専柔道の精神性です。戦後屈指の寝技師の柏崎克彦先生(国際武道大学教授、一九八一年世界選手権六五キロ級優勝)が七帝戦を観戦して「これは魂のオリンピックだ。レベルが違っても賭けた情熱が同じならば、それは個々にとってオリンピックと同じ価値がある」と仰ったそうです。フィジカルは劣っても練習量と情熱はトップに負けないものがありますし、十五人の総力戦ということでチーム全体が、選手に選ばれない部員も含めて一体になれる。やはり寝技師で全日本選手権準優勝の元谷金次郎先生(大阪府警)も七帝戦の魅力にはまってよく観戦にいらしてますけども、根性だけでカメで頑張る分け役たちの真摯な姿に胸を打たれるんだと思います。カメで八分間守り続けるには大変な技術と精神力が必要です。私はカメは多くてもいいと思うんです。私たちは五輪を目指して柔道をやっているわけではなく、七帝戦で優勝するためだけに柔道をやってるわけですから。だから抜き役よりも分け役にこそ高専柔道や七帝柔道の本質はあるんだと思います。二高で小田常胤先生が九十年前に蒔いた思想が、そこには息づいているんです。

 

高専柔道の聖地・京都武徳殿に乗り込む六高柔道部員たち。これらの大行列は夏の京都の風物詩だった。

――分け役が頑張る姿こそ美しいということですね。


増田 松原隆一郎先生(社会学者、東大柔道部長、大道塾師範代)とお話したときに出た話ですが、七帝柔道の現役学生を一年生から四年生までごちゃごちゃに並べて一年生・二年生・三年生・四年生を順番に並び替えろと言われたら知らない大学の知らない学生でも何年生かわかるんですよ。首が太くなったり耳が潰れたりという部分もありますけど最も変わるのは顔つきです。面構えが明らかに変わってくる。一年、二年、三年、四年と、どんどんいい顔になっていくんです。チームのために練習を重ねるうちに男として成長していく様が目に見えてわかる。こんな世界って他にないと思います。受験勉強ばかりやってきた青白い少年が四年間かけて堂々たる青年に成長してく様を間近に見ることができるというのは、松原先生のように現場で指導されている方々にはたまらないと思いますよ。


――たしかに指導者としてそんな素敵なことはないですね。


増田 六月十三日と十四日、今年は講道館で七帝戦が開催されます。寝技に興味がある方はぜひ観戦していただければと思います。実は高専柔道=七帝柔道が講道館で開催されるのは大正三年に高専柔道が始まってから初めてのことで歴史的に大きな意義があります。かつて講道館は高専大会だけが寝技への引き込みを許したルールでやっていることが看過できず、嘉納治五郎館長自身がわざわざ主催する京都帝大まで足を運んでルールの改正を求めているんです。ですが、京都帝大はこれを断りました。


――なぜですか?


増田 立っても寝ても自由ではないかというのが帝大側の言い分です。格闘技であるからには寝技を規制するのはおかしいのではないかと。講道館こそ立技を偏重しすぎではないかと。それに、この高専ルールこそが高専柔道独特の滅私のチームプレーを涵養しているんだという思いもあったんだと思いますし、自分たちが柔道界の寝技を引っ張っているんだという自負もあったんだと思います。


――で、結局は帝大側はルールを変えなかったと。


増田 高専柔道は高専柔道の道を行かせてもらうと。嘉納館長としては講道館柔道とは似ても似つかぬ異形の高専柔道がどんどん巨大化して自分の柔道の理想を脅かしているのが我慢ならなかったのでしょう。嘉納先生は実戦を想定していた方ですから、街中での喧嘩で引き込みをやったら、上から踏まれてしまうだろうとか、そういう考えがおありになったんだと思います。嘉納先生は講道館柔道で総合格闘技を目指していたんです。船越義珍に講道館に空手部門を置きたいからやってくれと頼んだり、乱取りでの当て身もやりたがってたくらいですから。


――なるほど……。


増田 ただ、一九九三年の第一回UFCでグレイシー柔術が出てきて、寝技専一の柔道が工夫次第で実戦的なものになることが実証されましたよね。相手と完全に離れるか完全にくっつく、距離を殺せば打撃技は防げるということをグレイシー柔術が示してくれた。グレイシーはコロンブスの卵だったわけですから。嘉納先生がご存命の頃にグレイシーが出てきていたら、きっと興味を持たれたと思います。そして寝技ベースの護身術も練り直すでしょう。小田常胤先生たちに「実戦で使える高専柔道の技術を研究してくれ」と頼み、アマレスのタックルも取り入れると思います。もちろん競技化されて凄まじいスピードで進化し続けている現在のMMAの最先端ではタックルと柔道家の寝技だけでは無理があります。でもリング上の競技はトッププロたちの特殊な世界です。素人の暴漢相手の一対一を想定した場合、柔道の寝技は有効な護身術だと思いますよ。

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【「高専柔道」の名前の由来について】

――高専柔道の名前の由来について教えていただきたいのですが。


増田 戦後、GHQによる学制改革で六・五・三・三という学制が六・三、三・四に変わったんですね。戦前は小学校が六年まで、旧制中学が五年まで、旧制高校が三年、大学が三年制だったんです。だから旧制高校というのは、現在の高校生というよりも、大学生の年齢にあたるんです。高専柔道を語る場合、この戦前の学制を知ることが大事なので少し詳しく説明させていただきますが、一高から八高までがナンバースクールと呼ばれていた旧制高校です。設立された順番に名前が付いているだけなんですが。


――なるほど。


増田 それに準ずるのがネームスクールといって、たとえば旧制弘前高校、これは今の青森大学、旧制浦和高校が今の埼玉大学、旧制佐賀高校が今の佐賀大学、旧制松本高校が今の信州大学というように、戦後、新制大学に昇格するんです。ナンバースクールも、さっきいったように二高は東北帝国大学に吸収されたように、一高は東京帝国大学に、三高は京都帝国大学に、八高は名古屋帝国大学に吸収されて、それぞれ教養部になっています。ただし一高だけは「俺たちは東京帝大と同格だ。同格同士の合併なんだから教養部じゃなくて学部にしろ」といって教養学部になっているんですが。でも、たとえば地元に帝国大学がなかった五高は熊本大学に、四高は金沢大学に、七高は鹿児島大学にと新制大学に昇格しています。北大予科というのは北海道帝国大学の付属校にあたりますので、戦後はそのまま吸収されて新制の北海道大学の教養部になっています。


――少し難しいですけども、なんとなくわかってきました。


増田 さきほど旧制高校が年齢的に現在の大学生にあたると言いましたけれども、身分的にも今の新制の大学に近いものだったんです。教師たちは教授とか助教授とか呼ばれていました。もうひとつの共通点としては、いちおう帝国大学に進むには入学試験がありましたけれども、ナンバースクールとネームスクールを合わせた旧制高校の定員と帝国大学の入学定員がほぼ同じだったので、学校と学部を選り好みしなければ、自動的にどこかの帝国大学には進めたんです。たとえば四高柔道部出身の井上靖は四高では理科(系)所属だったんですが、大学では文学部に進みたかった。第一志望は京都帝大だったんですが、その年は定員割れがなくて理科からだと入学できなかった。それでとりあえず定員に空きのあった九州帝大の文学部に進んで、京都帝大の定員割れの年を待って入学してるんですね。


――大学入試が楽だなんて、それはたしかにいいですね(笑)。


増田 モラトリアムの時代といってもいいんでしょうか、大学入試では入学試験の勉強をあまりしなくてもいいんですよね、旧制高校生たちは。だから三年間まるまる柔道にぞんぶんに打ち込めたという背景があります。旧制中学への進学率さえかなり低かった時代ですから、旧制高校進学はもっともっと少なかった。旧制高校の入学試験を突破すれば、それはもう将来を約束されたようなものでした。旧制高校の三年間は何をやっていてもいいモラトリアムの時代だったんです。そういう意味で、やはりいまの大学生にあたります。そのぶん旧制高校の入学試験はかなり激烈だったそうですが。久米正雄の『受験生の手記』なんか読むと、そういう雰囲気がよくわかります。


――高専柔道という名前を見て、普通の人はみんな現在の国立の高専を想像してしまうんですが、高専の高は旧制高校、専は旧制専門学校をさしてるんですよね。


増田 そうです。ここまで挙げてきた一高や二高といったナンバースクール、それから旧制弘前高校や旧制浦和高校といったネームスクール、それに北大予科なんかも含めたものが官学(公立)の旧制高校だったんです。戦前の旧制専門学校というのは、現在の専門学校とはまったく違って、たとえば名古屋高商という高専大会の強豪がありましたけども、正式には名古屋高等商業学校といって、戦前は専門学校のカテゴリに入れられていたんですね。ここは戦後、名古屋帝国大学に吸収されて名古屋大学経済学部の前身になっています。三重高等農林学校は三重大学農学部の前身、徳島医学専門学校は徳島大学医学部の前身、順天堂医学専門学校は順天堂医大の前身です。同志社高商(同志社高等商業学校)は戦後、同志社大学として大学に、関学高商(関西学院高等商業学校)は関西学院大学に昇格しています。これらを戦前は専門学校と呼んだんです。だから現在の専門学校とは性格を異にします。高専柔道というのは、先に話しました官学の旧制高校と、これらの私学を含めた専門学校が参加して盛大に行われる大会だったんです。だからこそ、技術レベルが短期間でとてつもなく高くなっていったんですね。


(『月刊秘伝』2009年7月号掲載)

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■増田俊也(ますだとしなり)
1965年生まれ。作家。愛知県立旭丘高校柔道部から北海道大学柔道部へ。4年生時の七帝戦が終わって部を引退後、大学を中退して新聞社に入社。「シャトゥーン ヒグマの森」で第5回「このミステリーがすごい!大賞」優秀賞を受賞。
 

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